木を見て庭を見ず

出雲・石見を中心に、歴史的なお庭と屋根と神社仏閣を見て回って、ひとりごとです。

雪舟を探して(その2)

 前回は、雪舟がお庭を作った記録は無い。ってな事をつぶやいてみましたが、とりあえず、雪舟は画僧なので少しだけ絵のお話を・・・とは言っても、絵について私が何かを語れるほどのものはありませんが、世の中には雪舟の絵の研究は山ほどあります。
雪舟と言えば「四季花鳥図屏風」や「秋冬山水図」など幻想的な絵がある一方、「益田兼堯像」などの肖像画、そして「天橋立図」のような風景画ではリアルで緻密な描写の絵も見られます。実はこのあたりが雪舟等楊が生きた時代を反映しているのでしょう。肖像画は贈答品かもしれませんが、リアルな風景画は?・・・雪舟等楊が芸術的な感性や個人的趣味で描いたはずはありません。
 雪舟が活躍した時代は「応仁の乱」のまっただ中から戦国へ向かう激動の時代。しかも雪舟のパトロンは西国の大大名大内政弘。・・・各地を旅しリアルな風景画を描いた最大の理由は?・・・そう、写真の無い時代の軍事情報にほかなりません。・・・つまり、雪舟は大内のスパイ!?・・・だからと言って、スパイっぽくこそこそ隠れて活動していた訳ではなく、そこは「明国帰りの有名画僧」の肩書きがものを言います。超有名文化人!スパイされる側にも、あやかりたい人は多くいたことでしょう。だから、リアルな風景画を描くスパイとしてのお仕事の他、肖像画を頼んだり、時には「うちのお庭のデザインをお願いできないでしょうか?」なんて事もあったかもしれないですよね。
 ところで、雪舟等楊は大内氏をパトロンに、山口に雪舟工房を構えていたはずです。また、雪舟没後には雪舟の弟子たちが雲谷派(雪舟は雲谷庵を拠点にしていた)を名乗るぐらいですので、多くの弟子たちを抱えていたことも間違いありません。
 雪舟作のお庭が存在したとすると、実際の施工には雪舟のお弟子さんたちが加わっているはずです。だから、後々には雪舟の関与が薄い、雪舟のお弟子さんたちのお庭も増えてきたはずなんです。やがて「雪舟のお弟子さんのお庭」が語り伝えられている間に「雪舟さんのお庭」になってしまった場合も相当数があったと思われるのです。

お松:例によって、こんにちは。え~と、つまり、ややさんは雪舟作のお庭と雪舟の弟子作のお庭に分けることが可能では?と、考えているんですか?
やや:ムリムリ!実際には、いろいろな関与があっただろうとは思いますが、記録自体がないのに、それを特定することは不可能だと思います。それに、室町時代のお庭が、現代まで大きな改造を受けずに保たれている場合はほとんど無いと思います。だから、雪舟庭園と呼ばれているものであっても、雪舟の、濃いも薄いもいろんな程度の関与があったはず。そう言うことです。
お松:なるほど・・・。ところでこのシリーズは、なかなかお庭が出てこないですねぇ。
やや:ギク・・・では、次回は、雪舟がお庭をデザインするような下地があったかどうか?てな事を少しさかのぼって考えたいと思います。
小川家庭園の滝石組み
写真は、小川家庭園(江津市)の涸滝組。雪舟が逗留したとも伝えられる小川家の庭は、もちろん、雪舟作庭の伝承持つ。石の感じが万福寺などに通じるか・・・?
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  1. 2012/05/26(土) 15:43:28|
  2. 雪舟を探して
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松江藩のお庭と出雲流庭園(その8)

商家や農家で御本陣を勤めた所は、現在も続いて住んでいらっしゃる家も多いので、公開されている御本陣はそう多くはありません。木佐家の旧本陣記念館は移築なので・・・櫻井家や絲原家と言った鉄山師の他には、え~っと・・・松江市宍道町の八雲本陣、つまり木幡家庭園があります。八雲本陣は近年まで旅館を営まれていたこともあり、それなりの改造は受けていますが、江戸時代の御成庭園と現在見ることのできる庭園の関係を判りやすく伝えている可能性があります。
 八雲本陣では御成門の他に明治40(1907)年に皇太子(後の大正天皇)行啓に際して造られた「行啓門」を備えています。外から見ると2種類の門が並んでいます。前庭から見ると、御成門の方から続く市松模様の飛石がすてきです。現状では、行啓門の内側に園路が続いていませんので、明治40年以降に園路を御成門側に戻したと思われます。市松模様は、明治・大正期のハイカラなデザインを感じますよねぇ。

八雲本陣の御成門と行啓門

市松模様の飛石



 さて、八雲本陣には、皇太子をお迎えした明治40年の飛雲閣の写真が(当然!)残されています。それを見ると、自然石と切石の沓脱石が並ぶ様子や、高く小振りな飛石、(やや小型で斜めに置かれてはいますが)切石の短冊石など、いわゆる出雲流庭園の要素がふんだんに記録されています。

一方、八雲本陣と言えば、宝筐印塔の笠を使った見立てものの手水や、不昧公垂涎の「片袖の手水」が有名ですよね。この内「片袖の手水」は藤間亨先生の『格式と伝統 出雲の御本陣』によれば、明治維新を経て東京へ移り住む松江藩家老の大橋家から譲り受けたものとされています。同様に大橋家から譲り受けた伝利休茶室(!)は、明治5年に木幡家に建てられましたが、明治40年の皇太子の行啓に際して解かれ、保管されていました。現在、この茶室は松江市に寄贈され、松江歴史館に再建されていますね。

片袖の手水


 ところで八雲本陣のお庭では、有るべきものが無い!と言う点が気になります。八雲本陣は、宍道の町屋のど真ん中に位置しています。なので、防火用水としての池泉が必要だと思うのですが、八雲本陣に限らず、御本陣を勤めた商家・農家のお庭に池泉がありません。斐川平野の農家には農業用水があり、鉄山師のお庭はいずれもしっかりと池泉庭園ですが、町屋のど真ん中ではあった方が良いに決まっている!と思うのです。でも、それが無いと言うことは、もしかしたら松江藩では「池泉は、贅沢」と見ていたと言うことでしょうか?池泉を備える場合は、幕府・松江藩が贅沢禁止を訴える以前からあったか、明治維新以後に新たに作られる場合が多かったと思われます。
 さて、
 八雲本陣庭園は要素が多すぎて、この話を続けるといつまでも終わりませんが、おおざっぱに言えば、片袖の手水鉢を主景石に据える奥庭は明治5年頃の改造。行啓門や市松の飛石や、新書院前のいわゆる出雲流庭園の部分が明治40年頃の改造だと言うことが判ります。・・・え江戸は?・・・具体的には判りませんが、江戸の御本陣のお庭というのは、巨大な景石や人工的な切石などは多く使わない、ごくごく質素でシンプルなお庭だったと想像されます。八雲本陣で言えば、見立てものの手水なんかの周辺がそれっぽいと思うのです。
見立てものの手水
  1. 2012/05/12(土) 18:40:08|
  2. いわゆる出雲流庭園
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柔らかい石

 標高599mの大麻山山頂は360°の大パノラマ。だから山頂にはテレビ局各社の電波塔が建っています。柔らかいおにぎり形のこの山は、たぶん海から見ても目立つ山に違いありません。日本海を行く船はこの山を目印に・・・
 この山の山頂近くにある大麻山神社の社務所の横にある庭園は、ちょっと似たものが無い、独特の雰囲気。気になるお庭です。
 そもそもは大麻山神社の神宮寺である真言宗尊勝寺のお庭だったとのこと。その尊勝寺は天保7(1836)年に大雨に伴う地滑りで被災し、庫裏だけが再建されたものの、明治5(1872)年の浜田地震で再び被災。この時は再建される事もなく・・・。そして、昭和17年に重森三玲氏がお庭を発見?!・・・『日本庭園史体系』に重森完途氏がそう記しています。おそらく、一般的に庭の存在が忘れられていたのだろうと思われますが、庭そのものは大麻山神社によって、しっかりと維持されていたのではないかと・・・それを重森三玲氏が評価した。と言うことだと想像されます。
 さて、このお庭、説明板などには「遠州流」と記されていたりします。え?遠州流?小堀遠州ですか?・・・重森完途氏は『日本庭園史体系』の中で、「お茶はともかく、お庭に遠州流は無い」とばっさり・・・。このお庭を見回して見ても、遠州を思わせるものは・・・うねるように続く刈り込みが頼久寺(岡山県)や大池寺(滋賀県)を思わせる・・・と言うことかもしれませんが、古写真を見ると、ツツジは普通に丸く刈り込まれていますので、この刈り込みは近年になってから始めたものの可能性があります。とにかく、どこが遠州流かは判りません。

大麻山神社庭園の刈り込み


 別シリーズで「雪舟を探して」を始めちゃいましたが、その調べの途中で、「雪舟作庭」と言われるお庭を検索していると、この大麻山神社庭園を雪舟作と考えている方もいたようで驚きました。まさか単純に「石見の優れたお庭は雪舟作」と言う話ではないと思いますが・・・。重森三玲・完途両氏は、平場右手の石の配置が不自然として「この辺りに池泉があったのでは?」とされています。もし、この場所に池泉があると、滝組みがそれよりも北西にあるので『作庭記』の約束事とは逆になります。雪舟作庭の代表作とも言われている常栄寺庭園(山口市)では、『作庭記』に合わせた滝組みの配置を(けっこう無理して)取っているように見えますが・・・。一方、県内で雪舟のお庭と言われている代表としては益田市の萬福寺庭園と医光寺庭園があります。この内、医光寺庭園では西側に滝が組まれていますね。さらに滝組みの上に蓬莱石が置かれている点とか、配置は確かに似ているような・・・。
 私にとってこの大麻山神社のお庭、どの辺が気になるのかと言うと「石に角が無い」と言うことです。だから比較的小降りの・・・でも鋭く尖った、天を突き刺すような石や、逆に上面が真っ平らな石を選んだ萬福寺や医光寺のお庭の石とは全く逆の印象を持っているんです。そもそも尊勝寺は真言宗なので臨済宗の雪舟作庭にはやはり相当無理がある話ですね。

大麻山神社庭園の柔らかい石


 つまり、このお庭の作庭者は、「小堀遠州の関係者でも雪舟等楊でもない誰か」と言うことになりますが、こういった柔らかい石だけを選んで組まれたお庭というのは、県内でもあまり見ない気がします。尊勝寺の真言宗ネットワークの方なのか?それとも・・・。そもそも大麻山神社は阿波国から勧請された神社なのだそうです。それに大麻山自体は日本海交通の重要なランドマーク。広い交流がもたらした、らしくない、石見っぽくないもの。そんなものが作られたとしても、不思議が無いと言うか・・・それが石見っぽいと言うか・・・。
  1. 2012/05/06(日) 12:16:58|
  2. 石見のお庭
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やや

Author:やや
 神社仏閣と古い町並み、そして何より屋根とお庭が大好きな“やっぱり屋根が好き”と申しますが、相棒の“お松”に、あり得ないぐらい略されて、“やや”と呼ばれています。

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