木を見て庭を見ず

出雲・石見を中心に、歴史的なお庭と屋根と神社仏閣を見て回って、ひとりごとです。

雪舟を探して(その5)雪舟、明へ行く、で、明ではしゃぐ!

京都でつらく修行を続けていた雪舟は、西国の大大名“大内政弘”を頼って山口へ向かいます。この辺りが、昔ながらの美術系・観光系の雪舟話では、「硬直化した京都の絵に辟易し、山口へ向かった」なんて言い方をされる事もありますが、むしろ、東福寺の人脈を頼ってなんとか脱出したと言う方が近そうです。で、山口で明を目指します。
 明を目指すには、大内氏に頼らざるを得ない?
 そうなんです。当時の明は朝貢貿易以外は認めていません。一方、それで得られる明の産物は、その希少価値も、当時の日本で莫大な利益をもたらしたようです。
雪舟の時の遣明船の3艘の内訳は、1艘が室町殿(幕府・・・実は実質的に大内)の船。もう1艘が管領細川家の船。そしてもう1艘が大内氏の船です。出港直前に文明応仁の乱が始まっていますので、国内的には細川と大内は戦争中!?まさに呉越同舟のすごいパーティです。
 ところで、遣明船には必ず禅僧が乗り込んでいます。当時の禅僧は最新知識を持つインテリであり、漢字を駆使して外交を担い、おまけに商売までやっちゃう人たちでした。平安時代の終わりから始まった、宋・元との貿易では、頻繁に往来していた禅僧が通訳もこなしたため、貿易と商売には禅僧の存在が不可欠だったようです。その役割は、日明貿易でも引き継がれ、遣明船には必ず禅僧が乗っていたようですが・・・禅僧の役割は通訳?・・・実は、宋の頃と違って、明が貿易統制を強化すると・・・当然、日本の禅僧も入明の機会が激減し、中国語と接する機会も無くなります。・・・結果、禅僧と言えども中国語が話せなかったのでは?と言われています。・・・ただ、漢字文化圏のありがたい所は、いざとなったら筆談ができる(私も台湾でそうした!)。特に禅僧の教養のひとつに漢詩がありますので、そのあたりで最低限の意思疎通は可能だったことでしょう。
 そんな背景の中で、京都で鳴かず飛ばずの雪舟は、遣明船に滑り込むことに成功します。
 ところが?
 明では、大歓迎されちゃいます。絵の才能が明で認められた?・・・そう言う可能性も、それほど言い過ぎではないでしょう。
 日本を出港した遣明船は寧波に入津し、北京の入国許可を待つ間、寧波周辺で過ごすことになりますが、その間に雪舟は寧波の南、天童山景徳寺で「天童山第一座」と言う称号を贈られます。その後、大運河を北上して北京に入り・・・北京では、礼部院中堂で壁画を描いたとされています(でも、明側での記録は無し!)。
 とにかく、京都で鳴かず飛ばずだった雪舟の絵は、明で(表向きには)絶賛され、雪舟は「ざぁまぁみろ!」と思ったはずです。ところで、寧波で贈られた「四命天童第一座」と言う称号は、現代の日本で言えば、海外の元大統領とかが来日し、有名大学とかで講演して「名誉教授」の称号をもらうようなものだと思われますが・・・。でも、雪舟は(おそらくそのことも知った上で)お気に入りだったようで、帰国後は頻繁に使っていますね。認めてくれなかった京都と本場での評価の差が、よっぽどうれしかったのでしょう。
さて。この間のお話は、大親友の了庵桂悟が記した『天開図画楼記』などに記されています。もちろん、お庭らしき話はほとんどできてきません。お庭関係の雪舟本には、「京都で夢窓礎石を始めとするお庭を見て、明で本場の庭園に心打たれた」かのような事が書かれているものもありますが、おそらく、山口から明へ向かう経緯を考えても、明での公式行事や遣明使一行の団体行動を見ても、そしてなにより、雪舟自身がこなしたお仕事(もちろん、明で描いた絵のこと)を見ても、とてもお庭やってる暇は無かったでしょう。

お松:まいど、おじゃまします。なんか、毎回同じ事を聞いていますが、やっぱり、お庭は作ってない?って事でよろしかったでしょうか?
やや:京都から山口経由で明に渡り、帰国するまでの間については、絶対にお庭作りに関わっていないと思います。例えば、雪舟が描いた絵がお庭のモデルになる、と言うような間接的関与であっても、帰国する以前であれば、100%無い!と言っても良いと思います。
お松:お~。いつも、「判らない」しか言わないややさんが、いつになく強い否定で!やっぱり、雪舟は庭を作っていない!
やや:帰国するまではねっ!
お松:それ以後は、まだ判らない?と言うことですね。ま、い~か。で、この頃、雪舟は何歳ぐらいなんですか?
やや:う~ん、確か、48~9じゃないかな?
お松:げ!いい年じゃないですか?もう、半生が終わってる?少なくとも、前半生ではお庭に関わってないんですね。
・・・そう言えば、ややさんもそろそろ半生が終わりそうですが・・・。
やや:ほっとけ~!
瑠璃光寺の五重塔

画像は・・・雪舟も見たはずの瑠璃光寺五重塔と、その前にいらっしゃった雪舟さん。・・・なんだか、難しそうなお顔していらっしゃいますが・・・。

雪舟さん

(歯でも痛いんですかねぇ?この元になった自画像は、もうすこし、優しげですけどねぇ・・・。←お松:また、余計なことを・・・。)
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  1. 2013/01/27(日) 12:07:07|
  2. 雪舟を探して
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石見銀山の武家屋敷河島家住宅

 パンフレットによると、河島家住宅は寛政12(1800)年の大森大火より後に造られ、文政8(1825)年までに座敷奥ノ間が増築されたと推定されています。発掘調査で飛石の痕跡が確認され復元されたお庭は、その奥ノ間に伴うものですので文政年間頃?・・・まぁ、判りませんが、築山の低い平庭に作られています。
武家屋敷河島家のお庭
 大森の町並みでは、武家屋敷と町屋が混在していますが、おおざっぱに言えば、通りに軒を接しているのが町屋で、塀を巡らし、通りとの間に前庭を置いているのが武家屋敷と言うことになります。特に、件の大火後の再建では、主に町屋には赤い石州瓦が葺かれ、武家屋敷には灰色の宅野瓦が使われた場合が多かったようです。現在では、圧倒的に石州瓦が使われていますけれど、本来は、もう少し黒瓦の混在割合が高かったはずです・・・
 庭の話ではないですね・・・。

大森の蛇口
おまけの画像:大森の町並みで見つけた蛇口。
 蛇口でしかない。蛇口だけれど水は出ない。しかし、確かに、そこに蛇口は存在する・・・。
  1. 2013/01/20(日) 10:01:49|
  2. 石見のお庭
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冬のしつらえ?

 冬に限ったことではありませんが、京都など、お寺のお庭を見るのはとても楽しいし、美しいですね。季節毎に変わる美しさの訳は、単に季節のお花や天候だけの問題(もちろん、手入れの問題は言うまでもない)ではないと思っています。
お庭を見る楽しみのひとつは、建物から見る風景、つまり、建物という額縁を通して見る風景にもあるのですが、それが(言っちゃぁなんですが)公共で管理している建物とお庭には時々がっかりさせられます。
 なにが?・・・“しつらえ”
 建物には、人が活動する以上、人の活動に合わせた“しつらえ”があります。極端に言えば、夏の“しつらえ”では寒くてしょうがないし、冬の“しつらえ”を真夏にされたらうっとうしくってしょうがないに決まっているのです。それが公共が管理する建物には、“歴史的建造物を見せる”以外の何も無くって、ただ、年中同じ空間を無理矢理見せている所も少なくありません。いや、それはそれでしょうがないのでしょうが・・・。そうは言っても石見銀山の伝建地区にある熊谷家のように、管理しているNPOの努力で、季節毎の“しつらえ”をがんばっておられるところでってあるにはあるのです。もちろん、お庭マニアとしては、真冬でも全窓大解放していただきたい時もあるのですが・・・。

小泉八雲旧居の冬のしつらえ?

 写真は松江市の小泉八雲旧居。冬なので、障子(ふすま)が入っているべきなのでしょうが、大解放中!閉じられた窓枠がうっとうしい程度の夏の“しつらえ”?です。
 もちろん、冬の“しつらえ”では見学自体がしづらいでしょうが・・・。
  1. 2013/01/13(日) 19:01:56|
  2. お庭でひとりごと
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残雪の明々庵

 予報は午後から雪か雨と言うことでしたが、午前中は思いの外晴れた(よって、放射冷却ですんげ~寒い!)ので、昨日からの残雪の残る明々庵に行ってきました。
明々庵の蹲踞
 手水に残る雪が良いです。
残雪の明々庵
 ・・・う~ん、汚い。飛び石の上を歩けよぉ!まぁ、しょうがないか・・・。
 明々庵は、「いわゆる出雲流庭園」でおなじみの松江藩主松平家第7代藩主松平治郷によって、安永7(1779)年に家老であった有沢家に建てられた茶室ですが・・・松江市から東京の間で何度も移転を繰り返し、昭和41(1966)年から現在地に建っています。何度でも解体移築ができるのが木造日本建築の特徴ではありますが、・・・なので、お庭は江戸期のものではありません。
 そうは言っても、霰こぼしの延段や、小振りな飛石は、それらしい雰囲気を伝えていますね。
明々庵の灯籠
 明々庵には何基か灯籠が立っていますが、これらの灯籠の竿石の多くに転用材が使われています。写真の灯籠は、明々庵の躙り口から貴人口を繋ぐ延段の横に置かれていますが、この竿石には、横材を受けるほぞが開けられていますね。橋脚でしょうか?新しそうではありますが、良い味出してます。
  1. 2013/01/05(土) 17:09:41|
  2. 出雲のお庭
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謹賀新年

やや:新年、あけましておめでとうございます。旧年中は、「木を見てみて庭を見ず」を時々のぞいていただいてありがとうございました。新年も変わりませず、時々のぞいてやって下さいませ。
お松:がしょ~う!(←それって挨拶のつもりか?:やや)今年も元気でお庭巡りしましょう!って、ややさんらしくもなく、えらく控えめな挨拶で?
やや:(正月早々、そのテンションはなんやねん?)まぁ、旧年中は、ほとんどお庭を巡る時間がとれず、「雪舟を探して」も滞って・・・ねぇ。新年こそはと思うんですが、今年もどうかなぁ。あんまり、激しく高い目標を置かずに、少しずつで良いか?って・・・。
お松:だはは、まぁ、そうですよねぇ。いい加減年だし(←ほっとけ~!:やや)。で、一応、聞いておきますが、今年の抱負とかってありますか?
やや:ホント~に一応な聞き方ですねぇ。・・・昨年に引き続き、雪舟ですね。特に見たいお庭としては、英彦山周辺のお庭。
お松:“ひこさん”て、どなたですか?
やや:「どなた?」じゃない。「どこ?」・・・そ、そっからか~。え~っと。九州ですね。明から帰った雪舟が、修験の山である英彦山周辺の天台寺院のお庭を作ったことになっているんですが・・・その辺をですねぇ・・・。
お松:期待せずに、気長に待ってま~す。
やや:・・・う。でも、そんなところが現実か・・・。
石見銀山 元清水寺跡のお庭
 写真は、前回に引き続き、世界遺産石見銀山の観光コースからは大幅に(前回よりはましだが)外れた、元清水寺跡。清水寺は、元々、石見銀山の仙ノ山の山頂にあって、その観音様が光って石見銀山が発見された(石見銀山にたくさんあったと言われる自然銀が光ったのではないか、と本気で言う人がいるので困る?!)と言うお寺。時代と共に山を下って、現在は銀山町の中程に移っています。その前の、江戸から明治の清水寺跡。建物も何も跡形もありませんが、山際に池跡のくぼみが残り、景石らしき岩があります。
元清水寺跡のお地蔵様
 岩の前にはお地蔵様が置かれています。もちろん、ここにあったはずはありませんが、お庭の全体像が見えない今となっては、良い味を出していますよね・・・。
  1. 2013/01/01(火) 07:21:51|
  2. お松との会話
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やや

Author:やや
 神社仏閣と古い町並み、そして何より屋根とお庭が大好きな“やっぱり屋根が好き”と申しますが、相棒の“お松”に、あり得ないぐらい略されて、“やや”と呼ばれています。

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