木を見て庭を見ず

出雲・石見を中心に、歴史的なお庭と屋根と神社仏閣を見て回って、ひとりごとです。

なんちゃって西洋建築3

以前は和泉利三郎だと言われていましたが、興雲閣の設計者は、最近では判らないとされています。ただ、興雲閣や隠岐の島町の旧周吉外三郡役所の設計に当時の島根県が関わっていることは間違いないようです。近代化を推し進める中にあって、市や郡が施工する公共建築の近代化に県が積極的に関与しようとしたようですね。
 で、以前から名前の挙がっていた和泉利三郎さんと言うのは、どうも松江の寺町の大工さんで、入札で興雲閣の建設施工を落札した方のようです。この和泉利三郎さんは、その後、大正8(1919)年には温泉津の藤乃湯旧館・・・現在の震湯ギャラリーを施工しており、ベランダ付き洋風建築を得意にしていた大工さんだったようですね。ただ、両者に明確な共通点は少ない事から、設計までは踏み込んでいないと考えられているようです。
路地の先の震湯ギャラリー
お松:するってぇと、おまえさん、なにかい?島根の擬洋風建築ってのは、松江ので~く(大工)が造ったって言うのかい?
やや:・・・突然、べらんめいになったのは、大工って言う言葉に反応した訳ですね。
お松:あたぼうよぉ!こちとら神田の生まれ・・・
やや:確か、石見の生まれですよね。
お松:・・・はい。
藤乃湯旧館(震湯ギャラリー)
やや:松江市寺町の大工、和泉利三郎さんがいくつかの擬洋風建築を施工したのは間違いないようですね。みんな下見板張りベランダ付きの洋館です。
 現在、修理の進んでいる興雲閣では、平行していろいろな調査が進んでいます。また、松江市では日本最古級の警察建築の転用と言われる雑賀幼稚園の解体移築も進められており、明治の建築の調査研究が急速に進められているところですね。急速に近代化の進む明治の公共建築に、擬洋風建築がどのように取り込まれていったのか?地元の大工は、どのように関わったのか?いろいろ判ってくるんじゃないですか?
お松:そうですね。興雲閣を見てきたおかげで、そんな建築も少しだけ残されていることが判って、おもしろかったです。
やや:藤乃湯旧館や旧周吉外三郡役所だけでなく、実はまだあちこちにけっこうたくさん・・・。松江市役所の近くにある田野医院は、一説には明治4年と言われていますので、そうであれば全国的にも最古級の擬洋風建築と言うことになるし・・・江津本町にもおもしろそうなのがいくつか・・・石見銀山のなかむら館もなかなか数奇な運命を・・・。
田野産婦人科医院
お松:そうなんですか?見たいなぁ、今度、連れてってくださいよぉ?
やや:てやんでぃ、こちとら、宵越しの銭は持たねぇんでぃ。明日の予定なんざ、立つわけがねぇや。
お松:あ、江戸っ子になっちゃった。
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  1. 2014/05/25(日) 07:52:02|
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なんちゃって建築2

明治12(1879)年に建てられた2代目島根県庁舎は、2階の前面にベランダを廻らせた典型的な擬洋風建築のデザインでした。この建物はすでに焼失してしまいましたが、興雲閣に非常によく似ていたようです。また、隠岐の島町の五箇に移築された旧周吉郡外三郡役所が、ベランダなど、一部が省略されていますが、大変よく似たデザインとなっています。この建物は明治18(1885)年に西郷の松江藩陣屋跡に建ててられていたもので、現在は隠岐郷土館として隠岐の島の文化財を展示する施設に利用されています。
興雲閣修理中
 2代目島根県庁、周吉郡外三郡役所、興雲閣と続く一連の建築は、その設計者が判明してはいませんが、当時の島根県が関わっていたと推定されているようです。明治18年の周吉郡外三郡役所までは、擬洋風建築のブームの中にあったので疑問はありませんが、興雲閣は・・・。同じ目的で建てられた鳥取城の仁風閣の1/4程の予算だったことなど、いろいろ想像されるのですが・・・。
隠岐郷土館
お松:隠岐郷土館を見に行ったのは一昨年の秋でしたっけ?白い壁に赤い屋根が印象的でした・・・赤い屋根?
隠岐郷土館全景
やや:自分で言って、首をかしげるなよぉ。隠岐郷土館の屋根は赤い石州瓦が葺かれていましたね。
お松:興雲閣は黒い屋根ですよねぇ。
やや:興雲閣は、長江産の左桟瓦です~!
お松:げ、しまった。このネタは長くなりそうなので、また来週!さようなら。
  1. 2014/05/24(土) 18:54:58|
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白亜の洋館・・・なんちゃって

 明治の初め頃、白い柱と白い壁、ベランダ?尖塔?車寄せに玄関アーチなんかを備えた木造瓦葺き建築が各地に建てられます。西洋風な日本建築?このような建物は「擬洋風建築」と呼ばれています。擬洋風建築・・・擬洋風です!洋式ではなく洋風。さらに「疑わしい」を意味する字まで重ねて・・・。「なんちゃって西洋建築」と言うことです。
 安政5(1858)年、当時の江戸幕府はアメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ロシアと修好通商条約を締結してついに開国に踏み切りました。来日した外国人は、当初は寺院や民家に仮住まいしていたようですが、文久3(1863)年、洋風建築が建てられます。観光や修学旅行で行った方も多いと思いますが、長崎のグラバー邸がそれです。グラバー邸はイギリスの貿易商であるトーマス・グラバーが自分で設計し、それを元に日本人大工!が建てた建物なのだそうです。
 居留地の整備が進むと、西洋式街区に洋風建築が建てられ、見慣れた町並みとは異なる、当時の日本人の好奇心をくすぐる景観が作られていきました。そこから、それを模した建築、つまり擬洋風建築が出現したと言うことです。
 それは一見すると西洋建築ですが、よく見ると、なまこ壁だったり、シャチホコが載っていたり、玄関に唐破風がかぶっていたり・・・。その後、日本人も海外へ行き、海外の建築を見て、なんか違う!って事に気づくことになるのですが・・・。擬洋風建築は、一般的には明治初年頃から造られ始め、明治10年頃にピークを迎え、明治20年以降には新たに建てられることはほとんど無くなるとされているのですが・・・。
 松江市の中心部、松江城二ノ丸にある島根県指定文化財興雲閣(こううんかく)では修理が行われており、その様子が公開されたので見てきました。
興雲閣修理公開
 興雲閣は、日露戦争の影響で実現しませんでしたが、明治天皇の行幸に備えて建設され、明治40(1907)年に皇太子(後の大正天皇)行啓の際の宿所として利用された建物です。で、この建物が建てられたのが、明治35~36年!つまり、擬洋風建築のピークはとっくに過ぎてから建てられた建物でした。
玄関付近
 ペンキで塗られて大理石風に見せていますが、もちろん柱は木製。壁は竹木舞に土壁、白漆喰仕上げと完全に日本建築です。
 そうかと思うと2階の広間の上の屋根裏は、西洋建築の構造、キングポストトラスが組まれ、それによって柱のない広大な広間を実現しています。
キングポストトラス
 擬洋風建築と言うものは、見える部分を西洋風にし、見えない屋根裏の小屋組なんかを和式で造る建築だと物の本で読んだ気がしますが、見えない屋根裏にキングポストトラスです。しかも、まったく継いでいない松の1本材だそうです。・・・重そう。
 この修理に際して、あちこちのゆがみたわみを計測したそうですが、一部で地副石が沈下しているだけで、100年以上経ってもほとんどゆがみの無い建物なのだそうです。
 ほとんど部屋が竹木舞・土壁・漆喰仕上げでしたが、皇太子の寝所と居間だけは和紙張りなのだそうで、下地には反古紙(使用済みの文書)が貼られています。むかしのふすまと同じですね。
和紙を貼った壁
お松:そもそも、修理前の画像って無いんですか?
やや:だいぶ前の画像ですが、これで・・・。
修理前の興雲閣
お松:お~!なんちゃって白亜の洋館ですね。
 さて、これってブームが過ぎ去った後の擬洋風建築?当時としても時代遅れの建物と言う風に聞こえましたが・・・。
やや:ぶっちゃけそう思ってました。けど、デザインはともかく、さすがに明治天皇や皇太子をお迎えするための建物。ものすごく贅沢な材を使用し、ものすごく丁寧に造られていたって事が判って驚きでした。同じ用途で建てられた鳥取城の仁風閣(国の重文)に比べるとちょっとしょぼいと思ってましたが、どっこい「がんばってる感」がすごいです。
お松:うんうん。で、他にもこんな建物ってあるんですか?
やや:いくら何でも長くなってきたので、そのあたりは次回に続くってことで・・・。
お松:え~、ここで引っ張る?
やや:ごめん。じゃ、また。
  1. 2014/05/18(日) 18:40:38|
  2. 屋根フェチの小部屋
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黄泉の国から風力発電

 前にも紹介したことがありましたが、出雲には黄泉の国の入り口が2カ所ほど開いております。出雲地方東部の松江市東出雲町に知られているのが『古事記』『日本書紀』に記された「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」。イザナキが亡くなったイザナミに会いに行き、見てはいけない姿を見てしまったため、イザナキと黄泉醜女(ヨモツシコメ)に追われ、やっと逃げ切ったのが、この世と黄泉の国の境となる黄泉比良坂です。
こうした全国版の神話とは異なり、地元の伝承を伝える『出雲国風土記』では、まったく逆方向、出雲の北西部に「黄泉の穴」と呼ばれる場所があるとされ、一般に現在の猪目洞窟に当たると考えられています。
 もちろん、『出雲国風土記』の黄泉の穴が現在の猪目洞窟かどうかは諸説ありますが、この洞穴では、昭和23年に発掘調査が行われ、南海産のゴホウラ貝製腕輪をはめた弥生人骨や船材を転用した古墳時代の木棺など、黄泉の国を思わせる物があったのも事実です。
猪目洞窟
 洞窟の奥は徐々に狭まり、水も溜まっているため、そう奥へは進めません。洞窟の中は、古代からさほど変わっていないのかもと思いつつ、そんな猪目洞窟の前から外を見ると・・・。
猪目洞窟から日本海
 風車・・・増えたなぁ・・・。
  1. 2014/05/17(土) 07:35:34|
  2. 神話の足跡探し
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天気も良いのでちょこっとドライブ

 東西に長~い島根半島は東西の両端が飛び出した形をしております。なので、西の端にある日御碕は、夕日が日本海へ没するところです。その日御碕には日御碕神社があります。
日御碕神社遠景
 日御碕神社の中心的な社殿は2つ。正面にある日沈宮(ひしずみのみや:下社)には天照大神が、右手の小高いところにある神の宮(かみのみや:上社)には素盞嗚尊が祀られています。あまり出雲らしくない取り合わせのような気がしますが、日の昇るところにある伊勢神宮に対し、日の沈むところでもお祀りしなければならない方(ネット上では天平7年の勅らしいが、続日本紀には記載がない・・・)がいらっしゃったようです。
 神仏習合が当たり前だった江戸時代には、境内に三重塔や宝塔など仏教の施設もあったようですが、明治の神仏分離で解体されたようです。
日沈宮天照大神を祀る日沈宮です
神の宮素盞嗚尊を祀る神の宮です

 現在の日沈宮や神の宮などの主要な建物は寛永21(1644)年の建築とされており、重要文化財に指定されています。白壁丹塗りの社殿が美しい日御碕神社ですが・・・なにせ、島根半島の西の先端。強烈な季節風と潮風に晒され、すぐに傷みが目立ってきます。そこで、近年になって主要な建物の修理が進められ、つい先日には、修理されていた神の宮の覆い屋が取り外され本来の姿を取り戻しつつあるところです。
禊所
お松:などと、言いつつ・・・やっぱり、そう言う建物には余り興味が無さそうで・・・
やや:無い訳じゃないけど、ぴかぴかになっちゃうとねぇ、なんかねぇ・・・。
お松:で、さっきから見ているこの建物は?まだ、丹塗りの修理が終わってないんですか?あ!重要文化財って書いてある。
やや:禊(みそぎ)所です。この建物は元々丹塗りではないようですね。それから、この禊所に限らず、ここの建物はほとんどが重要文化財です。この建物だけにわざわざ書いてあるのは、ぴかぴかしていないので、よく知らない人が、安易に荷物を置いたりするのを注意しているんです。
お松:なるほど。神事の前に禊ぎをするところなので、それで、ぴかぴかしていないのかしらん?屋根の下から垂れ下がっている棒は何ですか?
禊所の蔀戸
やや:蔀戸(しとみど:上に跳ね上げる窓)を吊す金具ですね。
お松:閉まっているとこうなるんですね。ところで、禊所って、神社の中でもひときわ清浄に保たなければならない場所じゃないんですか?
やや:神社の中はどこだってそうですが、確かに気を遣う場所でしょうか?・・・ん、ナニ?・・・引っ張るなよぉ・・・なんで~?俺が近づいちゃイカンと?
  1. 2014/05/11(日) 17:53:15|
  2. お松との会話
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夢のお告げ

石見銀山のおおざっぱな(←失礼!)歴史を伝える『石見銀山旧記』は、18世紀に記されたものです。なので、そこに記されている16世紀の話は、その当時に記された元本があり、そのコピペである事が判っています(←お松:だからなに?)。なので、エピソード毎に何となく書きぶりが違っているのもおもしろいです。
「山が光った」とされる石見銀山発見のエピソードは、元々、石見銀山仙ノ山の山頂近くにあった『清水寺縁起』が元本なので、清水寺の観音様のお導きで発見・・・つまり山が光る(光ったことにする)訳です。

お松:そもそも16世紀って戦国時代?当時の鉱山なんて、神頼みが当然でしょ?現に、山が光って発見されたんだし・・・観音様が・・・。
やや:だから、山は光りません!当時の山師は、重金属を好む植物の分布、地形や土質、火山や温泉の分布など様々なデータから鉱脈の位置と方向のあたりをつける訳です。それなりに科学的な鉱物探査をしているはずです。
お松:じゃぁ、どこにも神頼みなんて無いじゃないですか?
やや:そもそも情報ツールの少ない時代。そうした有力情報を入手できるかどうかも神頼みみたいなものだったかも知れませんが・・・その先、つまり発見した鉱脈が、採算が取れるほど優良鉱脈かどうか?と言うレベルになると、掘ってみなけりゃ判らないので、そこは神頼みになってしまったり・・・。
お松:なるほどね。で、神頼みで見つかった坑道なんて、判っているものがありますかねぇ?
やや:だから、神頼みじゃないってば。お告げネタで有名どころはこれですね。
石見銀山釜屋間歩付近
やや:釜屋間歩です。備中の山師の安原伝兵衛は、(例によって!)清水寺に観音様に祈ったところ、夢に「金の釜」(?)が現れた。その夢のお告げを時の銀山奉行大久保長安に話して資金を得、その結果、莫大な銀を掘り出したとか。
お松:金の釜?何それ?でも、いいなぁ。私にも夢のお告げが無いかしらん。
やや:で、庭でも掘るの?
 何度も言いますが、鉱脈の発見は科学です。そもそも夢のお告げに銀山奉行が資金拠出するはずないじゃないですか?その先の、作業の安全や投資に対してペイするかどうかが神頼みなんです。なので、まじめに働きましょう!
お松:・・・それをややさんが言うとイマイチ説得力が・・・。
  1. 2014/05/10(土) 19:26:35|
  2. 石見銀山で散歩
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波乗りウサギに会ってきた

お松:久しぶりにお出かけだったようで?でも、ほんの小一時間ほど?近場ですね。
やや:なんか、急に思い出して、波乗りウサギに会ってきました。
お松:な、波乗りウサギ?何ですか?それは?
やや:イナバノシロウサギは何色だったでしょう~か?
お松:シロウサギってんだから白に決まって・・・あ、そう言えば、ややさんから聞いたことがあったっけ?・・・確か茶色い?
やや:「何色か判らない」が、正解かも!『古事記』には「素兔」と書いてシロウサギと読ませています。日本のウサギなので茶色いと思うんですけどね。ずいぶん前になるんですが、「因幡の素兔」にはまって、『イナバノシロウサギの総合研究』(石破洋著)と言う本を読んでですねぇ・・・。
 イナバノシロウサギは、もちろん誰もが知ってる昔話。サメを騙しそこなって皮をむかれて赤裸。その上、八百神(ヤソガミ)にも嘘を教えられて泣いている所に、大きな袋を肩に提げたオオクニヌシが通りかかり、真水で洗ってガマにくるまると治るって教えるんですね。で、助けてもらったシロウサギは「ヤカミヒメのハートをゲットするのはオオクニヌシだ!」って呪い・・・じゃなかった、予言をする、と言うお話でした。
お松:え~、長々と、鳥取県のお話を?
やや:で、このシロウサギの似た伝承は、『古事記』以外にも・・・。
お松:ん?
やや:隠岐島には、「イナバノシロウサギ」の話の結果として、隠岐にある小島の一つに「この島にウサギのいない訳」と言う話があります。つまり、因幡へ行ってしまったんだとか。
お松:それって、おもしろ過ぎじゃないですか?
やや:明らかに「イナバノシロウサギ」を知ってから作られた、後世の話ですけどね。
 他にも、因幡じゃなくって「伯耆のシロウサギ」とか、いろいろあるようです。さらに、シロウサギは火傷なんかに御利益のある神様ですので、因幡に限らず、祀られているところがあちこちにある訳です。で、その一つが鵜鷺(うさぎ)。
伊奈西波伎神社
お松:ウサギ?!
やや:出雲大社の真裏。日本海に面した小さな港町です。そもそもは鵜峠(うど)と鷺浦(さぎうら)がいっしょになって鵜鷺なんですが。そこにあるのが伊奈西波伎(いなせはぎ)神社です。
伊奈西波伎神社の灯籠
 御祭神は稲背脛命(イナセハギノミコト)と言う神様ですが、八千戈神(ヤチホコノカミ:オオクニヌシの別名)、因幡八上比売(イナバノヤカミヒメ)神、そして因幡素兔神が合祀されています。
お松:え~!イナバノシロウサギは神様なんですか?
やや:さっきから言ってるじゃないですか、火傷なんかに御利益があるって!
お松:ひえ~、神様だったとはつゆ知らず、ただのふざけたウサギだと思ってました。・・・で、今日は何をしに、どこへ行ってたんですっけ?
やや:鵜鷺の伊奈西波伎神社の灯籠の台座にいるんですよ。
東の波乗りウサギ
お松:なにが?
やや:ふざけたウサギが・・・。
西の波乗りウサギ
お松:あ!波乗りウサギだ!
  1. 2014/05/06(火) 18:38:51|
  2. 波乗りウサギに会ってきた
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佐毘売山神社で思うところ

 鉱山の仕事は危険と隣り合わせ。なので・・・つまり、たくさん人が死ぬので・・・、かつての石見銀山では「銀山百ヵ寺」と言われるほど多くのお寺がありました。また、当時の山師どもが良い鉱脈を当てられるかどうかは(もちろん科学的にも探査してはいますが)、神頼みの要素もあり、そのために立派な神社も建てられています。
 石見銀山に来た観光客のほとんどが向かう観光坑道“龍源寺間歩”は一方通行です。その出口を少し下った辺りから右手には、銀山開発初期に手が入ったとされる昆布山谷(こぶやまだに)、出土谷(だしつちだに)の二つの谷が伸び、その間に、地元で山神(さんじん)さんと呼ばれる佐毘売山(さひめやま)神社が建っています。(←お松:このブログではおなじみですが)
 戦国末から江戸初期の繁栄した石見銀山の人口は・・・実際のところは判りませんが、人口20万、屋敷1万3千軒と伝えるものもあり・・・この手の言い伝えは、10倍表記はあたりまえ(←お松:「おつり、100万円!」ってやつですね)でしょうから・・・だとしても2万人近い人が、1千3百軒もの軒を連ね、この小さな山で生活していた可能性があります。『銀山由来記』には天文11(1542)年に発生した山津波で1万3千人の死者が出た(これも10倍として・・・それでも1,300人?!)と記されています。この大惨事の舞台が出土・昆布山谷であり、佐毘売山神社はそのど真ん中に建っているんです。
佐毘売山神社の拝殿

お松:単に神頼みだけで鉱山の神様を祀っているだけではないかもしれないんですね。
 ところで、ずいぶん長らく放置プレイでしたが、そろそろ完全復活?・・・と言っても、どこにも行けてないですよね?
やや:・・・ほ、放置プレイ・・・。なかなかすぐに完全復活というわけには行きませんが、徐々にペースアップして行こうと思います。
お松:じゃぁ、とりあえず、どっか行きましょうか?
やや:はいはい・・・。
  1. 2014/05/03(土) 10:15:55|
  2. 石見銀山で散歩
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プロフィール

やや

Author:やや
 神社仏閣と古い町並み、そして何より屋根とお庭が大好きな“やっぱり屋根が好き”と申しますが、相棒の“お松”に、あり得ないぐらい略されて、“やや”と呼ばれています。

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