木を見て庭を見ず

出雲・石見を中心に、歴史的なお庭と屋根と神社仏閣を見て回って、ひとりごとです。

久しぶりに雪舟を探しています

お松:お仕事の方は一段落したんだと思ってましたが、また、ずいぶん更新が滞っているようで?
やや:じ・実は、久しぶりに雪舟にはまってしまって、いろいろ資料を読みあさってます。で、これがまた、か・漢字が読めない・・・(←お松:漢字のせいですか?)。
常永寺庭園の船石
お松:雪舟?って、なんだかずいぶん前にしていた話ですよね。すっかり忘れちゃいましたよぉ。確か、室町時代頃のお坊さん?日本画の人?
やや:15世紀後半に活躍した臨済宗の画僧なんですが、一般的には「日本画の祖」とか「画聖」と呼ばれている方です。現存するその作品のほとんどが重文や国宝になっていて、もしかすると、個人としては最も多くの国宝を製作した方じゃないかと思ってます。
 で、その雪舟作と言われるお庭が西日本各地にあるのですが・・・。
お松:それに難癖をつけていると?
やや:だ・は・は・・・。まぁ、実際に、雪舟が作ったという確実な証拠のあるお庭はまったく無いわけで、そのあたりを・・・。
お松:おもしろがってちょっかい出していると?
やや:・・・まぁ、そうです。雪舟や雪舟の絵の研究は山ほどあって、伝雪舟庭園についても、お庭としての研究であれば、色々あるのですが・・・。
 雪舟がお庭を作ったかどうかについての研究は、非常に少ないんです。雪舟庭をウリにしている観光地も多いので、やりにくいのかもしれませんが・・・。とにかくこれは、おもしろい。
お松:なので、当分は「ブログそっちのけ」と言うことでしょうか?
やや:う?いや、そっちは細々とは続けていきますので・・・。
常永寺庭園

画像は、伝雪舟庭園の代表である、山口市の常栄寺庭園(季節外れでゴメン)です。ごつごつとした岩を上向きに立てているところなんぞが、雪舟の絵に通じるのだそうですが・・・。
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  1. 2015/02/28(土) 11:39:13|
  2. 雪舟を探して
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文字どおりの三寒四温で・・・

 すでに恒例行事と化していますが、ネタ切れにつき、更新が滞っております。気がつけば2月もすでに後半。暖かい日もあれば、小雨の降る肌寒い日も・・・。
お松:このバランスがもうすぐ逆転して、寒い日3日に対して暖かい日が4日続くようになるんですよね。
やや:そ、そんな具体的な話なの?
稲佐の浜の弁天島

画像は、暖かい方の日の稲佐の浜の弁天島です。神在祭の神迎え祭が(天候によっては)行われる(はずの)浜です。
お松:以前は、この上に枝振りの良い松の木が生えていたんですよね。
やや:近年、松食い虫にやられちゃいましたね。ちょっとした光景も、どんどん変わっちゃいますね・・・。
  1. 2015/02/22(日) 11:36:30|
  2. お庭でひとりごと
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十拳剣を振り回してみた件について

 出雲地方にはあちこに黄泉国の入り口(と言われる場所)があった、と言う話を何度かしていますが、今日もそんなお話です。
劔神社参道
 『古事記』によれば、亡くなったイザナミに会いに黄泉国へ行ったイザナギは、「絶対に振り向くな」と言われたにもかかわらず、お約束!で振り向いてしまいます。で、そこで見たものは・・・以下省略(←お松:手抜き!)。
 と、とにかく怒ったイザナミはイザナギを「黄泉醜女(よもつしこめ)」に追わせ、続いて「八柱の雷神に千五百の黄泉軍(よもついくさ:黄泉の軍団?なんか戦隊ものに出てくる雑魚キャラみたいな・・・)を遣わせて」追いかけさせます。イザナギは、その腰に付けた十拳剣(とつかのつるぎ:10握り分の長さの剣・・・それがどれほど長いのか?よくわかりませんが・・・)を後手に持って打ち振りながら逃れていったとか・・・。
で、イザナギがその十拳剣を抜いた場所が、この劔(つるぎ)神社だとされているのです。
劔神社拝殿
お松:え~!松江市南部の八雲町でイザナギが「イーッ!」とか言ってる黄泉の戦闘員と戦ったんですか?どっち方向から来て、どっちへ向かったんですか?
やや:「イーッ!」って、ショッカーとかのイメージですか(←お松:だってそう言ったじゃない)?・・・とにかくわかりません・・・って言うか、そもそも伝承だし。他の黄泉国の伝承地との関係もわかりません。ただこの近くには磐坂のイザナミ御陵伝承地と言う、宮内庁の陵墓参考地もあり、イザナミに関係する伝承のあるところのようです。
お松:イザナミのお墓があるんですか?
やや:ありません(きっぱり)。ありませんが、そう言われている場所があって、明治政府が陵墓参考地に定めたんです。
 劔神社は古代出雲の中心地意宇平野の南の山を越えてすぐの所にある小丘陵の上にあります。特に変わっているのは、本殿の棟の上にある千木。
お松:棟の上でペケになっている材ですね。
やや:先端が斜めに切り取られているのですが、よく知られているのは伊勢神宮など、多くの神社では水平方向に。出雲大社など出雲の神社では垂直方向に切られていることが多いと言われます。で、この劔神社では・・・。
劔神社本殿
お松:お?あれ?前後の千木で切る方向が違うんですね。男神だと縦で、女神だと横だって聞いたことがありますけど?
やや:観光パンフには、そう書かれているのをよく見ますね。でも出雲大社の古い絵図なんかを見ると、時々変わっているようなので、男女は無関係だと思います。それにしても前後で変える理由は・・・変わっているとしか言いようがないですね。

おまけ
劔神社の狛犬
やや:ここの狛犬は、キリッとした顔してますねぇ。
お松:でも、おでこに雪!載ってますよぉ。
  1. 2015/02/11(水) 10:09:34|
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野城大神と能義神社とアメノホヒ

 『出雲国風土記』には、399社もの神社が記されていますが、その中に「大神」と記されている神が4柱記されています。所造天下(アメノシタツクラシシ:オオナモチ≒オオクニヌシ)大神、熊野大神、佐太大神そして野城(のぎ)大神です。『出雲国風土記』には「野城駅(のぎのうまや)」の説明として「野城大神が鎮座している」の一言のみで、それ以上の記載がない点も奇妙です。4大神が祀られている地域を古墳の分布から見ると、それぞれ所造天下大神=出雲西部、熊野大神=松江市南部、佐太大神=松江市北部、と古墳時代に大きな勢力があった地域です。で、野城大神はと言うと、弥生時代後期から古墳時代初めにかけては、出雲を代表する墳丘墓・古墳の集中地域なのですが、5世紀に入ると有力古墳が見られなくなるという場所です。で、入れ替わるように大型古墳が造られるようになるのが松江市南部。能義周辺は、奈良時代も意宇郡(松江市南部)の一部に取り込まれており、能義郡として分かれるのも平安時代になってからのことです。大神と呼ばれそれを祀る勢力があったにしては・・・。
 古墳分布から想像をたくましくすると、出雲で最初に頭角を現す勢力は、安来平野の野城大神を祀る地域で、それが5世紀頃に松江市南部の熊野大神を祀る勢力に遷り、更に出雲大社を祀る出雲西部へ軸足を移していったかのように見えますね(←お松:お~い、佐太大神はどうしたの?)。
能義神社本殿
 さて、
 安来市能義町にある能義神社です。
 現在の能義神社のご祭神は出雲国造の祖とされる天穂日(アメノホヒ)命です。野城大神がアメノホヒと同一神だったかどうかはわかりませんが、アメノホヒは国譲りの時の最初の使者とされる神様で、『古事記』では「オオクニヌシニ神に媚びへつらって、ついに3年経っても帰ってこなかった」と記されていますね。
 一方、出雲側の言い分ともいえる『出雲国造神賀詞』には「地上界をくまなく視察し、国譲りを成功させた」と主張しています。実は、そのアメノホヒは出雲国造家の祖とされており、現在も出雲大社宮司である千家家と北島家に続いている事になっています。
野城大神の扱い、古墳の分布、出雲大社への移動・・・?断片的な情報だけではどうにもなりませんが・・・。ま、面倒くさい話はともかく、アメノホヒを祀る、出雲大社との関係も深く、そしてなりより「大神」を名乗るにふさわしい巨大な社殿です。

境内社野見社
 境内には、野見宿祢(のみのすくね)を祀る野見社があります。ノミノスクネはアメノホヒの子孫とされる神で、大変な腕力の持ち主。当麻の蹴早(タイマノケハヤ)を投げ飛ばしたことによって相撲の祖とされている神様です。また、日葉酢媛(ヒバスヒメ)命が亡くなったときに、殉葬者の代わりに埴輪を作った功績が認められ、土師(はじ)氏となった言われています。土師氏からは天神さんで知られる菅原氏なども輩出した言われており、実在の人物に繋がる神様でもあります。

おまけ
 能義神社の狛ワンコです。
能義神社の狛ワンコ
お松:出雲地方の狛ワンコは、どこに行ってもフレンドリーな笑顔で、こんなんで神社を守れるのかしら?って、心配になっちゃいます。
  1. 2015/02/08(日) 10:25:42|
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粟の穂にはじかれて、ビヨョョョ~ンとかやっちゃった件について(後編)

と、言う訳で。鳥取県米子市彦名にある粟島は、奈良時代には中海に浮かぶ島で、オオクニヌシと共に国造りに励んだスクナヒコナを祀る粟島神社が鎮座しています。
粟島神社の拝殿
 この粟島の中海に面した側には、静の岩屋と呼ばれる洞窟があり、八百比丘尼(やおびくに)が住んでいたと言う伝承が残されているのですが・・・。
粟島神社の静の岩屋
お松:静の岩屋?八百比丘尼?・・・な、なんか、微妙に聞いたことがあるような・・・。
やや:八百比丘尼というのは、キョンキョンですよね(←お松:あ!なんか思い出したぞ!それは、陰陽師の映画ですよね)。若狭国で人魚の肉を喰らい、不老不死になってしまった比丘尼の伝説です。全国各地に八百比丘尼とか千年比丘尼とか、同様の伝説があります。島根県内では隠岐の島町にその比丘尼が植え、800年後に見に来ると言い残した八百杉の話があり、浜田市にも怪力の比丘尼が岩を投げたと言う話が伝えられていますね。
お松:八百比丘尼の他にも、静の岩屋と言う言葉もどこかで聞いたことがあるような。
やや:大田市静間町に静之窟(しずのいわや)があり、邑南町にも志都の岩屋神社があります。どちらも、オオクニヌシとスクナヒコナが国造りの相談をした場所とされています。
お松:そうか。あ、あれ?そもそも粟島神社はスクナヒコナを祀っているんですよね?静の岩屋はスクナヒコナじゃないんですか?なんで八百比丘尼?
やや:ですよねぇ。『古事記』『日本書紀』に記されるスクナヒコナの神話とキョンキョン(八百比丘尼)の話が混在しているようですね。この辺りは、何というか・・・。
 万葉集に「大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代経むらむ(オオナムチ≒オオクニヌシとスクナヒコナのいた志都の岩屋はいったいどれほどの時を経たんだろうねぇ)」と言う歌があり、その歌が詠まれた場所に関する研究がたくさんあります。そうした中で、江戸時代の国学者である本居宣長は、播磨の「石の宝殿」(兵庫県高砂市生石神社)だと考えていたようです。ところが、その石の宝殿は『播磨国風土記』には「聖徳の御世、弓削の大連が造った」と記されており、奈良時代にはスクナヒコナとの関係が無かったかもしれないんです。『播磨国風土記』自体が一般に知られるようになったのも『出雲国風土記』などと同様に近世になってからですので、『播磨国風土記』の存在を知られない間に、いろんな伝承が混在した可能性はあるのでしょう。
お松:う~ん、なんだかよくわかりませんねぇ。
やや:神話って口承文芸ですので、いろいろ混ざり合うのはよくあることです。ただ、スクナヒコナ自体はおもしろすぎるんで、今後も追求していきたいですね。
お松:ビヨョョョ~ン!ですか?
やや:ビヨョョョ~ンです。何であんなに唐突なんだ?しかもビヨョョョ~ンって?いったいなんなんだ?それにキョンキョンもちょっと気になるし・・・。
  1. 2015/02/01(日) 17:21:09|
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 神社仏閣と古い町並み、そして何より屋根とお庭が大好きな“やっぱり屋根が好き”と申しますが、相棒の“お松”に、あり得ないぐらい略されて、“やや”と呼ばれています。

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