木を見て庭を見ず

出雲・石見を中心に、歴史的なお庭と屋根と神社仏閣を見て回って、ひとりごとです。

縄久利(なわくり)神社に行ってみた

 島根県は、旧国で言えば、出雲・石見・隠岐からなります。なので、出雲地方は島根の1/3に過ぎないのですが、それでも、まだ行ったことのないところがたくさん・・・。
急に思いついて、縄久利神社に行ってみたくなって、確か広瀬の東比田だから、国道9号線を安来で折れて、広瀬のちょい先あたり・・・。と言うつもりで飛び出したのですが、行けども、行けども・・・だんだん道は狭くなり・・・。
お松:時々、びっくりするんですが・・・。ややさんって、こういう所へ行くときに、ほとんど下調べもせず、カーナビにも頼らず、直感だけで行っちゃうことがあるんですよね。
やや:バッチリ当たるか、どつぼにはまるか、それも巡り合わせと言うことで・・・。
お松:・・・。で、今回は?
やや:どつぼにはまりかけましたが、ギリギリ持ち直しました。
お松:はぁ。
やや:で。縄久利神社は、安来市広瀬町東比田にあります。
縄久利神社拝殿
現在のご祭神は、大山祇(おおやまづみ)命、磐長姫(いわながひめ)命などとされていて、牛馬の守護神とされています。
縄久利神社の本殿
 でも、今回の目的は、その奥の宮です。神社の背後にそびえる・・・って、そもそも神社も山深いところにあるのですが、そのさらに背後の飯盛山(約600m)の山頂に奥の宮があります。本殿の横から道路をしばし歩き、鳥居のある山道をしばらく登り、そして、最後は、このあり得ない石段を登り切ると奥の宮です。
縄久利神社の奥の宮
 山頂周辺は、巨石が露出した状態で、それらの巨石や巨石の下の穴が信仰の対象となっていたようです。それらの巨石は、菊水の岩・こもり岩・乳岩・赤子岩など、様々に呼ばれ、言い伝えがあるようです。
飯盛山山頂付近の巨石群
お松:オオヤマツミとイワナガヒメって、なんか、最近、耳にしたような神様ですけど・・・。
やや:背中合わせのお宮。田中神社のご祭神がイワナガヒメとコノハナサクヤヒメでしたね(←お松:あ!美人じゃなかったんで帰されちゃった方の?)。
 ここでは、良い住居を探しに行ったコノハナサクヤヒメが、良いところが見つかれば、姉のイワナガヒメに縄を引いて伝えると、言い残して行ってしまったのに、いつまで経っても縄が引かれないので、待ちくたびれたイワナガヒメが縄を手繰ってみると、なんと、縄が切れていたのだとか・・・。で、縄を手繰ったので縄久利神社なのだそうです。
お松:縄は、どうして切れていたんでしょう。まったく、この姉妹は、大丈夫かしらん?
やや:縄を手繰るので、縄で引っ張る農耕牛馬の守護神なんでしょうね。例によって、神話の話は後世になってから・・・
お松:ややさんのつまんない説明はもう、その辺で良いです。

おまけ
縄久利神社奥の宮の狛ワンコ
あり得ない石段の上にいた、かなり古い狛ワンコです。お松さんの強力な押しにより採用。
お松:なんか、かわいくって。
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  1. 2015/04/29(水) 18:58:26|
  2. プチ巨石ブーム
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国引き神話とくらみの国

 『出雲国風土記』の冒頭を飾るあの壮大な「国引き神話」。八束水臣津野(やつかみずおみずぬ)命が、「国の余りはないか?」っつって引っ張ってきた国は、4分割した現在の島根半島です。最初に「新羅の余り(朝鮮半島?)」から引いてきた国が、平田町あたりから日御碕の部分。次に「北門の佐伎の国(隠岐諸島中の島あたり?)」が松江市上佐陀、下佐陀、佐陀宮内、佐陀本郷あたり。更に、北方の良波(現在地不明)あたりから引っ張ってきたのが闇見国(くらみのくに)。最後に、都都の三崎(能登半島の珠洲市あたり)が美保関周辺と言われています。
枕木山から見た闇見神社付近
 ちなみに、この話そのものは、意宇(おう)の地名説話なので、なんで、意宇(おう)なのかというと、国引きと言う大変な作業を終えた八束水臣都野命が、思わず「おぅえ~」って言ったから意宇なのですが・・・(←お松:「おぅえ」って?その地名、いやです)。
 ・・・まぁ、それはそれとして・・・。闇見国(くらみのくに)が、よくわからないのですが、闇見国だとされている松江市新庄町には久良彌(くらみ)神社があります。
久良彌神社の参道
 国引き神話自体は、島根半島の地形を俯瞰して語ったものと思われ、国引きの4っつの部分は、それぞれ島根半島の山塊が途切れる部分となっています。一方で、それぞれの地域の政治的な成り立ちを反映している可能性もあり、「国」と語っている以上、闇見国なる勢力が、かつて存在していた可能性もうかがわせます。そう言えば、松江市新庄町には八日山1号墳(現在は消滅)と呼ばれる古墳があり、そこからは卑弥呼の鏡とも言われる三角縁神獣鏡が出土していましたっけ。
真後ろから見た久良彌神社本殿
お松:闇見国って、あんまり聞いたことが無いような・・・。
やや:あんまりどころか、一部マニアと地元の人以外は、ほとんど聞いたことが無いと思います。ただ、こう言った地名説話が地域の成り立ちを表している可能性も高く、闇見なる何かを追求することはきわめて重要なのですが・・・
お松:重要だけど?
やや:さっぱりわからない・・・・。
お松:・・・。

おまけ
先代の狛ワンコ
 境内の隅には、役目を終えた先代の狛ワンコがいます。

現役の狛ワンコ
 こちらは現役。しっかり境内を守っていますよ。
お松:しかも、楽しそうに!
  1. 2015/04/26(日) 07:01:01|
  2. 神話の足跡探し
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成相寺の神像

 松江市鹿島町の佐太神社は、『出雲国風土記』では4大神に数えられる神ですが、その場所は、『出雲国風土記』「秋鹿郡」条の神名火(カンナビ=神が宿る坐す山)山の説明の中で、「その山の麓にある」と記されています。ところが現在の佐太神社は、神名火山に比定されている朝日山の麓ではなく、さらに2つの程の小さな尾根を越えた先に位置しています。このことから、神名火山の場所についても異説もあるようですが、おおざっぱに朝日山の山塊の麓と言う事なのでしょう。
 その朝日山の本当にすぐ麓には真言宗成相寺(じょうそうじ)が建てられています。現在は、谷奥の小さなお寺ですが、その仁王門は本堂からは250mも手前にあります。
成相寺の仁王門
 つまり、現在は残されていませんが、この間のすべてに・・・おそらくは周囲にも、多くの僧坊が建てられていたようです。寺伝では十二坊を有していたのだとか。
 この成相寺は、仁王門の仁王像や本尊の如意輪観音の他、島根県指定文化財に指定されている神像群を保存していることで知られています。
成相寺の観音堂
 かつて神社とお寺がきわめて近い関係だった頃・・・例えば、中世には、出雲大社で鰐淵寺の僧侶が読経を上げ、出雲大社境内にもお寺と同じ三重塔が建てられていたことがありました。この成相寺も佐太神社の別当寺として栄え、佐太神社の奥の院とも言われていたと伝えられています。また、佐太神社の方にも観音堂が建てられていました。
 しかし、慶応4年から明治元年まで数度にわたって出された、いわゆる「神仏分離令」は、神社からは仏教色を、お寺からは神道色を一掃することを要求しました。この成相寺でも鎮守社熊野社が廃される一方、佐太神社に置かれていた観音堂が成相寺に移されようです。
 成相寺に伝わる神像群は、中世から古代末までさかのぼるという大変古いもので、神仏分離令以前に、佐太神社との関係で祀られていたもののはずです。神仏分離令の趣旨からすれば、破棄されていても当然のものだったのでしょうが・・・。当時の成相寺関係者による大英断?もしかしたら秘密裏に・・・残され、現在でも大切に伝えられています。
 県指定文化財の神像群ではありませんが、現在でも参道沿いの観音堂では、観音様の両脇に神像が同居されています。
観音堂の神像

 慶応4年から明治元年に出された神仏分離令は、隠岐地方を始め一部地域では壮絶な廃仏毀釈を引き起こし、多くの寺院が破壊されたりもしました。当時、この趣旨に従われた方々にとって、それはごもっともなことだったのでしょうが、それによって失われた物は取り返しがつきません。
お松:なにか、言いたいことがあるようですが?
やや:その時、当然と思ってしまうようなことでも、何かを大きく変えるという事は、それなり以上のリスクが伴うものです。政治情勢を始め、とっても性急でイケイケな感じの昨今には危うさを禁じ得ません。
お松:いつになく・・・。
やや:時に、シリアスな一言で終わるのでした・・・。
お松:でも、次回からはおちゃらけに戻ります。
やや:やかましい!
  1. 2015/04/25(土) 06:33:32|
  2. 神話の足跡探し
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静かな石見銀山

 近くに用事があったもので、久しぶりに石見銀山で散歩です・・・が。
雨の代官所長屋門
お松:って?なんだかその・・・。
やや:夕方の、しかも雨の石見銀山は、観光客と思われる方は皆無。地元の皆さんも、足早に・・・。
雨の町並み
お松:な、なんで雨の中?しかも夕方になってから?
やや:久しぶりだったので行きたかったの!・・・とは言っても、少し寂しいですね(←お松:す、少しですか?)。

 このブログでは、何度か紹介していますが、石見銀山はちょっとした偶然が重なって世界的になっちゃった鉱山です。非常に特殊な鉱脈なのだそうですが、鉱山の規模としては中小の部類。なので、本当にバンバン銀を産出したのは、16世紀中頃から17世紀前半のわずか100年ほど。その後は銅を中心に操業を続けますが、昭和19年には完全に操業を停止しています。それでも江戸時代を通じて天領石見銀山御領の中心として栄えたはずですが、明治以降は次第に人口が減少し、静かな田舎町となっていました。
むかし栄えた大森の町並みは、人口減少によって新たな開発が押さえられ、それによって昭和の町がパックされてしまったようです。
雨の床屋さん
お松:なるほど!それでこんなレトロな床屋さん?とかが残っているんですね。ん?「こばた」ってなんですか?
雨のたばこ屋さん
やや:にゃはは・・・右から読むの。
お松:あ!たばこ屋さんだ。
やや:もちろん、営業してませんが。・・・修理されて、小ぎれいになっちゃいましたね。それも寂しいような・・・。
雨の観世音寺

お松:でも、少しは修理しないと、伝えて行けないですよね。前から気にしていた奥の方の神社とか、どうなっていましたか?
やや:日没コールド。
お松:は?
やや:日が暮れてしまって、そこまで行けなかったの。
お松:ほ、ホントーに何しに行ったんですか?
やや:・・・。
  1. 2015/04/21(火) 20:10:25|
  2. 石見銀山で散歩
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背中合わせのお社

 天気が良いので、ちょこっとお散歩。松江市鹿島町の佐太神社方面へ行ってきました。
 佐太神社は、『出雲国風土記』では、島根郡の加賀の神崎の窟でお生まれになったのに、祀られているのは秋鹿郡の佐太御子社(さだのみこのやしろ)だったり、明治以降はご祭神が猿田彦命とされたり、いろいろとややこしい神社です。現在では、3つの社殿が並び立つ壮麗なお社となっていますが、この景観が古代までさかのぼる訳ではなさそうです。
佐太神社
お松:出雲大社に続いて、まだ、御遷宮の真っ最中。なので、御仮殿での参拝になりますね。
やや:もちろん参拝しましたが、今日の目的は佐太神社ではなく、そのすぐ近くにある、田中神社です。『出雲国風土記』「秋鹿郡」条にも「田仲社」と記される古社なのですが・・・。
お松:お~!こんなところに神社があるんですね。社殿の間から佐太神社の御本殿が見えますよ。すご~く近くなんですね。
田中神社から見える佐太神社
お松:ん?社殿の間・・・。ん?この社殿は、どうなっているんですか?
やや:実は、二つの社殿が背中合わせに並び建てられています。
田中神社
お松:な、なんですか?これは!
やや:田中神社は、現在では佐太神社の摂社とされるお社で、佐太神社からはわずか100mほどのところにあります。佐太神社の方を向いている西社には木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)命を。反対、佐太川に向かっている東社には磐長姫(イワナガヒメ)命を祀っています。この二柱の神様は姉妹なのですが・・・。『古事記』によれば、天孫として降臨したヒコホノニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメを見初め、求婚したのですが、その父神の大山津見(オオヤマツミ)神は、姉妹セットで嫁がせようとします。ところが、姉のイワナガヒメは、何というか、イマイチその、ほれ。
お松:ん?『古事記』には、何て記されているのですか?
やや:・・・「ひどく醜い」とか、「一目見るなり怖気をふるって」って、記され・・・つまり、おブスな御顔であらせられたと・・・。
お松:あ・・・。
イワナガヒメを祀る東社
やや:『古事記』にそう記されているの!なので、ニニギノミコトは姉だけ返してしまいます。大山津見神が言うには、コノハナサクヤヒメは「花の咲くように栄える」と言う意で。姉のイワナガヒメは「岩のように長生きできる」と言う意が込められていたのに、イワナガヒメだけを返された。なので、代々の天皇の寿命はけっして長くないのだとか。また、『日本書紀』の「一書」には、人の命の短い理由として記されています。
お松:・・・。
コノハナサクヤヒメを祀る西社
やや:で、田中神社の西社、つまりコノハナサクヤヒメを祀ったお社は、縁結びや安産に御利益があり、東社、イワナガヒメを祀ったお社には延命長寿の他に、縁切りに御利益があるのだそうです。
お松:縁結びと縁切りのお社なので、それで背中合わせなんですね。姉妹なのだから、仲が悪い訳ではないんですよね。
やや:なんにせよ、『出雲国風土記』には、そんな話は全く出てきません。佐太神社のご祭神の話と同様に、時代の変化とともにご祭神も替わり、それに合わせて社殿も・・・。
お松:そうやって、結局つまんない話にしちゃう・・・。

おまけの画像
田中神社の灯籠
田中神社の灯籠なのですが、灯籠の屋根の上に狛ワンコが居ます。
灯籠の跳ね狛
お松:あ・は・は・・・。屋根にいると、ワンコじゃなくってニャンコですね。狛ニャンコ。
やや:そもそも狛犬は獅子なので猫科なのかも。
お松:屋根にライオンって、怖いじゃないですか?
  1. 2015/04/18(土) 16:09:53|
  2. 神話の足跡探し
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小泉八雲と城山稲荷

 小泉八雲=ラフカディオ・ハーンは、『怪談』や『知られぬ日本の面影』などで知られる明治の文豪です。明治23年8月から1年3ヶ月の間、当時の松江中学の英語教師として松江に滞在しました。
ヘルン旧居
お松:ちょっと~まって~、ちょっと~まって~?
やや:ラッスンがどうとか?
お松:そうじゃなくって・・・。しれ~っと始めてますが、まずは、この一月間、何をしていたのか、説明するのが先なのでは?
やや:・・・で、ですよねぇ(←お松:ですよねぇ、じゃないでしょ?)。
 じ・実は、年度末のこのくそ忙しいときに引っ越ししてました。以前に住んでいたところは、実に居心地良かったのですが、諸事情によりお引っ越しです。ちなみに、まだネット環境は整っていません。しかも出雲大社はずいぶん遠くなっちゃいました・・・て、ところで良いですか?・・・じゃ、話を元に戻して。
 松江では、ラフカディオ・ハーンの「Hearn」をローマ字風に読んで「へるんさん」と呼んでいる(←お松:そう呼んでいる人に会ったことはありませんが)とされており、その「へるん旧居」が松江市北堀町にあります。
お松:このブログの初期には、ここのお庭を紹介した事もありましたよね。確かけちょんけちょんに・・・。
やや:家屋の見せ方について、ちょっと言いたい事もあったと言うだけです。それにお庭は結構いけてます。
 塩見縄手と呼ばれるこの辺りは、松江城のお堀に面していて、お堀を挟んだ対岸には城山稲荷神社があります。
城山稲荷のキツネさん1
 小さなお稲荷さんではありますが、小泉八雲は、このお稲荷さんをとても気に入り、ちょくちょく散歩に訪れていたと伝えられています。
城山稲荷のキツネさん2
お松:小泉八雲と言えば松江ですよね。出雲地方のことを「神々の国の首都」と、言い切っちゃった人ですものね。でも、松江にいたのはわずか・・・?
やや:1年3ヶ月。松江の冬の寒さが我慢できなかったから、と言われています。ちなみに、松江にいた1年3ヶ月の間の住まいは2回も引っ越しされてますね。最初は、松江大橋近くの富田旅館に2ヶ月、次いで京店の折原家に8ヶ月。現在、多くの観光客が訪れ、へるん旧居と呼ばれるようになった根岸家にはわずか5ヶ月しか住んでいません。ちなみに小泉を名乗るきっかけとなった小泉節さんと結婚したのは折原家にいたときの事ですね。
お松:え?あそこにずっと住んでいたものと思ってましたよぉ。小泉八雲さんって、しょっちゅうお引っ越しされていたんですね。
やや:わたしゃ、もうヤダ。二度と引っ越しはゴメンですね。
お松:笑!

実は、まだネット環境が整っていません。完全復活はもうしばらく先と言うことで・・・。
  1. 2015/04/11(土) 18:49:36|
  2. 小泉さんの散歩道
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プロフィール

やや

Author:やや
 神社仏閣と古い町並み、そして何より屋根とお庭が大好きな“やっぱり屋根が好き”と申しますが、相棒の“お松”に、あり得ないぐらい略されて、“やや”と呼ばれています。

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