木を見て庭を見ず

出雲・石見を中心に、歴史的なお庭と屋根と神社仏閣を見て回って、ひとりごとです。

飴一文くんろ?

 小泉八雲、ラフカディオ=ハーンの代表作と言えば、『知られぬ日本の面影』ですが、一般的には『怪談』の方が有名でしょう。「雪女」などの怪談話は、おそらく多く人が耳にしたことがあると思います。その中に、「飴を買う女」と言うタイトルで知られる怪談話があります。多くの翻訳本で「飴を買う女」と言うタイトルが付けられることが多いのですが、わたし的には、一度目にした「飴一文くんろ?」と言う言葉の響きの方が気になります。
 さて、その「飴一文くんろ?」と言うお話、おおざっぱに・・・多少脚色を入れて要約すると・・・

 その昔。水飴を売る店がありました。
 ある晩、青白い顔をした若い女がやってきて、一文銭を出して
 「飴、一文、くんろ?」と言い、一文分だけ水飴を買っていく。
 翌日も、その翌日も・・・。
 7日目の晩。女は・・・飴を買わず、無言で主人を手招きする。水飴屋の主人は、不審には思ったが、それでもその女について店を出て、明かりの無い夜道を進み、寺の門をくぐり、墓地へ・・・。

 ・・・見失ってしまった。

 水飴屋の主人は、しかたなく引き返そうとしたが・・・なにかが、聞こえる。なにかが・・・。
 それは・・・赤ん坊の泣き声?・・・しかも、墓の中から?
 慌てた水飴屋の主人は、仲間を呼びに戻り、泣き声のする墓を掘り返した。
 すると、墓の中には、7日前に亡くなった母親の亡骸の横で、笑顔を見せる赤ん坊がいた。三途の川の渡し賃として墓に入れられていたはずの六文銭は・・・一文も残っていなかった。
お堀の曼珠沙華

 出産を目前に死亡し、死後に生まれた赤ん坊をなんとか育てようとしていた幽霊の話を、ラフカディオ=ハーンは「母の愛は死よりも強かった」と結んでいます。
 この結びは、ラフカディオ=ハーン自身の家庭環境の問題があり、母親の愛情に特別な感情持っていた事に関わるとされています。
大雄寺の墓地

さて、
この話に似た話は、実は全国各地にあるのだそうですが、ラフカディオ=ハーンが過ごした松江市汐見縄手にちかい外中原町の大雄寺(だいおうじ)には、その話が伝わっており、「飴を買う女」の舞台ではないかと言われています。
大雄寺

 ラフカディオ=ハーンの『怪談』は、単に人を怖がらせるのが目的の陳腐なフィクションではなく、日本文化を西洋に紹介しようとした民俗学的な口承文芸の収集です。
 その収集に大きく協力したのが、妻となる小泉セツさんだったようです。松江生まれの小泉セツさんが集めてきた話であれば、その舞台は大雄寺だったのかもしれません。


お松:だいたい世の中の注目の斜め下を行く(斜め上ではない)このブログで、『怪談』きました!どんなに松江を紹介しても、国宝になった松江城みたいな、メジャーなものは、何が何でも紹介しない!と言う姿勢で来ていたややさんなので、小泉八雲は『知られぬ日本の面影』一本で押し通すのかと思えば、ついに『怪談』来ちゃいました!
小泉八雲旧居

やや:いや、別に、メジャーなものを避けているつもりはなく、単に、その時々の興味関心です。大雄寺は、たまたまチャリで通りかかったんで、そう言えば、そんな話も・・・て、たまたま思い出しただけです。
お松:ほ、ほ~お?まぁいいか。
 大雄寺のある中原町界隈は、高層マンションがバンバン建っちゃって。小泉八雲旧居周辺も、きれいになり過ぎちゃったとこもあって、『怪談』も「飴を買う女」も、すっかりその面影が見えにくくなってきましたね。
汐見縄手

やや:これから秋の行楽シーズンも本格化。観光客のみなさまには、そのあたりをさっ引いてご覧いただきたいと思います。
お松:いつになく、無難な結びになりました。
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  1. 2016/09/25(日) 12:17:21|
  2. 小泉さんの散歩道
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船上山でガンダーラを歌ってみた3

 前回からの続きです。

 1333年、配流先の隠岐島を脱出し、船上山で倒幕の旗を揚げた後醍醐天皇と名和長利は、追っ手の隠岐守護佐々木清高を返り討ち!つ・ついに京へと攻め上る~ってことになります。
お松:え~、そ~いう話でしたっけ?それにまた、例によってタイトルが変なことになってるし。
船上山の屏風岩

やや:さて、
 後醍醐天皇が、なんでわざわざ船上山に登ってから倒幕の旗揚げをしたのかは、前回の話のとおり、船上山の山中に山岳寺院があったからなのですが、その寺は天台宗金石寺(こんじゃくじ)と呼ばれていたようです。船上山の寺は、大山寺、三徳山三佛寺と並び、伯耆三嶺と言われ、天台宗の拠点であり、修験道の霊場だったワケです。山頂近くには沢山の坊院の跡があり、最も広い平坦面が後醍醐天皇の行在所跡と言われるなど、多くの坊院があったようです。
 後醍醐天皇と名和長利は、この金石寺に立てこもって、佐々木清高と戦ったのですが・・・。金石寺自体は、その後、南北朝の騒乱で衰退。享禄三(1530)年に智積寺として再興されるも、戦国期の混乱の中で山中の坊院はますます衰退していきます。
お松:と、言う事は。山中には何も残ってないんでしょうか?
やや:山頂近くには、船上神社が建てられています。天文二十二(1533)年に、船上山三所権現の社殿が建てられ、智積寺は衰退しつつも神仏混淆の寺として残っていたようです。しかし、戦国時代の戦乱のあおりを食って、文禄年間(16世紀末)に三所権現を残して麓に降りています。
船上神社

 残された船上山三所権現は、当ブログではしょっちゅう出てくる、あの、明治政府の神仏分離令に際し、仏教色を廃して神社として存続することを選び、現在の船上神社へと続きます。
 こっちは奥宮の社殿。
船上神社奥宮

 現在の御本殿は、昭和9年に建てられたものだそうです。また、パンフレットによると、拝殿は、戦時中に建てられた正道館の講堂なるものを移築したそうですが、正道館がなんなのかは、私にはわかりません。
奥宮のホンダワラ

お松:ん?で、これはなんでしょう?
やや:ホンダワラ。
お松:・・・はい?
やや:ホンダワラ・・・。海藻のホンダワラです。拝殿の階段の両側と、奥宮の社殿の両側にお供えされていました。
お松:海藻を、標高615mの山の上でお供え?
やや:古代の塩は、このホンダワラなどの海藻を海水に漬け、干しては海水に漬けて塩分濃度を上げていき、それを焼いて塩を作っていました。神社に海藻がお供えされるのは、つまり、お清めの塩を置いているのと同じ状態です。出雲地方の神社では、時々見かけますが、伯耆の、しかも615mの山頂にあったのは驚きです。

お松:さて、3回続いた船上山シリーズも、このあたりで終わりでしょうか?後醍醐天皇が何で山に登って旗揚げしたもわかったし、ガンダーラと言うよりは銀河鉄道999の方が近かったかもしれませんね。
やや:♪ ざ ぎゃらくせぃ えくすぷれす すり~ないん うぃる てぃくゆ~ おん ぁ じゃ~にぃ ぁ ねば えんでぃんぐ じゃ~に~ぃ
あ じゃに~ とぅざすたぁ~
船上山の石塔

お松:すんごい演歌っぽく、歌い上げちゃいましたね。
  1. 2016/09/10(土) 07:39:17|
  2. 山寺で修行中
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船上山に旗を揚げに行ってみた2

 鳥取県の真ん中辺よりちょっと左(←お松:左?西です西)、琴浦町にある船上山です。
屏風岩の全景

配流されていた隠岐島を脱出した後醍醐天皇が名和長年の助けを得て、伯耆国名和に上陸。その背後にそびえる船上山で3度目の倒幕の旗揚げをしたのは元弘三/正慶二(1333)年のことでした。
 隠岐に流されていた後醍醐天皇を監視・警護していた隠岐守護の佐々木清高は、してやられちゃったので、直ちに手勢を率いて船上山にこもる後醍醐天皇と名和長年を攻めますが、失敗。この時の名和長年による戦いの様子は、『太平記』によれば、旗を立てたハリボテを置いて兵を多く見せるなどのゲリラ戦を展開。これに驚いた佐々木清高方の兵は、船上山の断崖から転落するものも出たとか、いろいろフィクションも交えて記されています。
屏風岩のアップ

お松:で?行ってみて、わざわざ船上山で旗揚げした理由はわかったんでしょうか?
やや:千丈と言われる屏風岩の横に作られた山道を登ることしばし・・・。尾根上に出るとそこには・・・。
寺坊の跡

お松:ちょっとよくわからないんですけど?
やや:・・・。
 で、ですよね。左下に「寺坊跡」って書いてあるんですが、それがなければ、写真ではまったくわからんな、こりゃ。
山門?の跡

 と・とにかく。尾根筋には、土塁に囲まれた広い平坦面が連続していて、所々に低い石垣や石造物が残されています。

お松:お城だったんでしょうか?
やや:江戸時代のお城や戦国時代の山城のように整備された城塞は、南北朝期にはまだ出現していません。これらは、山寺の跡です。それも、小さな山寺ではなく、多くの僧坊を抱える大きな山岳寺院の跡です。後醍醐天皇と名和長年は、この山岳寺院を山城に利用し、山岳寺院にも協力を得て倒幕の旗揚げをしたんだと思います。
石塔

お松:なるほど!「倒幕!」とか、書いた旗を揚げて、下から誰かが見ていた訳ではないのですね。
やや:あほかぁ?そんなこと、してるワケないでしょ。
お松:・・・(昨日は、なんかそう言うノリだったような・・・)。

おまけ
千丈覗きにて

お松:ま・またやってる。
やや:ここで旗を揚げたら、遠くから見えるかも。
  1. 2016/09/04(日) 14:28:31|
  2. 山寺で修行中
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船上山に旗を揚げに行ってみる1

やや:あのさぁ、前にさぁ、アイツいたじゃん(←お松:だ・誰でしょう?)。えっと~・・・ゴダイゴ。
お松:・・・ガンダーラとかモンキーマジックの?
やや:うんにゃ。隠岐に流刑になってた人。
お松:・・・ご・後醍醐天皇の事ですか?(「アイツ」とか、「前にいた」とか、この人にとって歴史上の人物って・・・)
やや:前から疑問だったんだけどぉ(←お松:前っていつ頃?)、流刑地の隠岐を脱出して、伯耆の赤崎に上陸して、で、船上山に登って倒幕の旗揚げをする訳だよねぇ。
お松:・・・。
やや:なんで、わざわざ船上山に登ってから、旗揚げするんだ?
お松:・・・そ、それは・・・、遠くから旗がよく見えるように・・・、なんちゃってぇ。
やや:て、事は、後醍醐天皇は、「倒幕!」とか、書いた旗を船上山の上で揚げたんだ。で、それを、誰がどこから見てたんだ?
お松:・・・(たぶん、根本的に違うと思います)。
やや:だからぁ。行ってみなけりゃわかんないじゃん(←お松:あぁ、行きたいんですね?)。と、言う訳で、行かなければならない!行ってみなけりゃわからない(きっぱり!)
お松:・・・。ところで、「前に」ってのは、いつ頃?
船上山全景

やや:高校の頃の歴史の時間に決まってるでしょ。とにかく後醍醐天皇はなんで・・・。
お松:えっとぉ!後醍醐天皇の事は、けっこうな歴史マニアじゃないと、ついて来れないと思うんですけど?そのあたりのストーリーをダイジェストでよろしく。では、いつものように「15秒でわかる後醍醐天皇の歴史」、よーいスタート!
やや:15秒はムリ・・・。
 後醍醐天皇は鎌倉時代の終わり頃、14世紀前半にお騒がせした・・・活躍した人で南北朝のきっかけを作った人です。
 当時は鎌倉幕府が傾きつつあった頃ですが、幕府を倒して天皇親政(幕府ではなく、天皇が直接政治を主導する)の復活を目指し、正中の変(1324年)・元弘の変(1331年)を起こすも立て続けに失敗。隠岐島に島流しになってしまいます。でも、あきらめの悪い後醍醐は、隠岐島を脱出。名和長年の助けを得て伯耆の船上山で倒幕の旗を揚げ(←お松:つまり挙兵したと)。足利尊氏や新田義貞らの活躍で、ついに鎌倉幕府を倒し、建武の新政と呼ばれる天皇親政を成し遂げます。ところが、あまりに理想主義的な変革を急激に進め、他にもいろいろ適当すぎた事もあって、足利尊氏に裏切られ、わずか2年で新政権崩壊!吉野に逃れて南朝を宣言するも・・・、と言うような方です。
お松:要するに、鎌倉時代を終わらせて、南北朝から室町時代に向かう道を開いた人ですね。
やや:で、その、倒幕の旗揚げをしたと言う船上山に・・・。
お松:わかりました。行ってらっしゃい!
  1. 2016/09/03(土) 17:08:01|
  2. 山寺で修行中
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Author:やや
 神社仏閣と古い町並み、そして何より屋根とお庭が大好きな“やっぱり屋根が好き”と申しますが、相棒の“お松”に、あり得ないぐらい略されて、“やや”と呼ばれています。

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